波と楽器のあいだ

川野太郎
波と楽器のあいだ / 3
2025年10月10日

遠い星

 午後3時ごろ、仏壇からマッチを借りて祖父母の家を出て、歩いて10分くらいのところにあるコンビニの駐車場にある灰皿のとなりで煙草をふかした。数日前に関東を発ったときは気温も20度台前半にまで下がっていたけど、九州に来るとまた30数度の残暑をあじわっている。もうあと数日で九月が終わる。移動と気温の変化でなんだかぼーっとしてしまい、駐車場に立っているのぼり広告の文句をいくつも煙ごしに、裏から見えるまま読む。
 一服すませてまた歩きだし、住宅地の境目にある、二両編成のちいさな電車が通る踏切を抜けて歩道がほとんどない車道を渡る。また路地に入って竹林を囲むフェンス沿いにしばらく進むと手すりのあるゆるやかな下り階段があらわれる。祖父母の家の一帯はわりあい高台にあり、この階段は水源と原っぱのある公園に通じていて、上からその広がりが一望できる。
 二十年前や三十年前のようすをよく覚えている知り合いに聞くと湧き水の量は次第に減っていて、水位が下がっているだけではなくかつて水が流れていた場所が草地になったりもしていてさびしく見えることもあるそうだが、透き通って流れる水が水面を波立たせて水路を光らせているのを見ていると、ふだん暮らしている関東の住まいのそばには水場がなく、小さいころ祖父母の家を訪れたときによく立ち寄っていたこの公園の往時を思い出せるわけでもないいまのわたしには、ただ新鮮で落ち着くような感じがする。でも年上の知り合いたちに話を聞いたあとではそんな感想に「水のとぼしさ」のニュアンスが重なる。それですこしさびしい。
 新鮮で、落ち着いていて、すこしさびしい。
 その浅い水の流れに、ズボンの裾をまくって両足をひたしている人がいる。
 見るだけでそこに心地よさが発生しているのが――その人が感じているように感じているのではないとしても――ほとんど確信のようにわかって、そのことが一瞬、わたしをわたしの気分の外に出す。
 わたしは気分の変調とともに生きていて、ときにはそれにとても苦労するので、現実離れした観念がべったりくっついた気分をぱっと晴らすような、自分の五感に触れてくるものはもちろん、自分ではない存在と環境の接するところに発生しているに違いないこういう心地よさ、あるいはその手前のさらさら、ひんやり、ぞわぞわ……などのことも頼りにしている。
 そういうことに心を奪われていたと気づくとき、自分の気分と関係なく起こっていることに生かされている、と感じる。
 そういう意味では「言葉」はどうだろう。言葉は書いている者の気分を記録しながら、要素をまとめ・切り分けるのを同時に、毎語ひっきりなしにやっていて、なんだかとても硬いようでいて、べたついてもいて、騒がしい……と、ときどきそんなふうにしか感じられず、ぐったりしてしまう。
 しかし、熊本に着いてすぐに老舗の古本屋さんでなんとなく買ったメキシコの詩人オクタビオ・パスの『鷲か太陽か?』という詩集をめくると、パスは、ある種の書かれた言葉は書き手を離れて存在する、もしくはそのような言葉こそ目指されるものである、と言っているような気がする。「詩に向かって(様々な起点) 」という文にはこうある――

単語、句、音節、不動の中心を巡る星々。二つの肉体、一つの単語の中で出会う多くの存在。紙は消せない文字で覆われる。誰も言わず、書きとらせもしなかったそれらの文字は、そこに落ちてきて、燃え上がり、焼け、消える。こうして詩が存在し、愛が存在する。だからたとえ僕が存在しなくても、君は存在するのだ。

 わたしは「詩が存在し」をすんなりと読むようには「愛が存在する」を読めない自分に気づいたりもするのだが( 自分と比べたときの「血の気の多さ」のようなものを思う)、それはともかく、こんなふうにゴロッと、気分や気持ちの器とはべつの、もっとモノっぽい「言葉」がどこかにあるかもしれないと想像するとなぜか気持ちいい。宇宙の彼方で誕生して遠くで光ってひとりでに死滅する星のような言葉。

 一週間あけていた関東の家に戻り、ちいさいクラシックギターにさわる。一週間分、弦が緩んで、音が低くなっている。煙草とライターだけ持って、遠くのコンビニの灰皿を目指して歩く。ギターをチューニングしなおすとか、スーパーに行って食材を買うとか、郵便受けを確認するとかする前に。こういうときに煙草を吸うのは、しばらく留守にしていた場所に軟着陸したい気持ちとつながっている気がする。吸うと光度を上げる目前の火星。

*オクタビオ・パス『鷲か太陽か?』野谷文昭訳、岩波文庫、2024年。

波と楽器のあいだ

川野太郎(かわの・たろう)

翻訳家・作家。1990年熊本生まれ。訳書にシオドア・スタージョン『夢みる宝石』(筑摩書房)、ベン・ラーナー『トピーカ・スクール』(明庭社)ほか。2025年3月、はじめての散文集『百日紅と暮らす』(Este Lado)を刊行。

artwork / collage | 川野太郎


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